13.宗教裁判
最後の最大の挫折
ローマへの険しい道
ガリレオの異端を審査する裁判はローマで行われることになり、ガリレオにはローマ教皇庁検邪聖省への出頭が命じられた。トスカナ大公が貸し与えてくれた輿に乗って、ガリレオはアペニン山脈を横断した。その道は長く険しかった。1633年、ガリレオはローマに到着する。
この最後のローマへの旅は、屈辱と挫折に満ちていた。それまでのガリレオの人生は豪奢とは言えなくとも、栄光と名誉が溢れていた。尊厳ある上流の市民として過ごしてきた今までの栄華が崩れ去ろうとしている。ローマの街の空気はくすんでいて、建物の汚ればかりが目についたのだった。
冤罪
宗教裁判のイメージイラスト。 裁判の争点となったのは、第一次宗教裁判の時に地動説を「いかなる仕方においても」「教えない」ことが命令されたのかどうか、ということだった。もしこのような命令が下されていたのなら、『天文対話』の刊行はその命令違反を行ったことになる。今日ある資料からは、第一次宗教裁判でこのような命令が下されていたことを立証するものはない。つまり、ガリレオは、地動説が異端か異端でないかという宗教上の理由とは関係なく、純粋に裁判の手続きや訴追理由において、冤罪だったのだ。
裁判は、地動説が正しいか正しくないかを議論する場所ではなかった。ガリレオの命令違反を問うものだった。人生の先の見えているガリレオにとって、ここでの闘争は不毛でしかない。ガリレオは、あるはずのない罪を認めて減刑を期待することにしたのだった。
判決
1633年6月22日、異端審問が開かれていたサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会で判決が言い渡された。判決の要点は3つ、『天文対話』を禁書とすること、検邪聖省が望むだけの期間、聖省内の牢獄に入れること、贖罪のために3年間にわたって毎週1回7つの悔罪詩篇を唱えること、である。
判決が言い渡されたあと、ガリレオはひざまずいて異端誓絶を行った。地動説の誤りをみとめ、罪をうけいれた。この時、ガリレオにはもはや有力な庇護者がいなかった。彼の精神をかろうじて保っていたのは、家族との絆だけだった。
自宅軟禁
年の暮れになって、ガリレオは帰宅を許された。裁判のあいだもガリレオを精神的に支えた長女マリア・チェレステとの、フィレンツェ郊外の集落アルチェトリにある家での生活も長くは続かなかった。マリア・チェレステは1634年4月2日に死ぬ。その後、親族を呼び寄せて寂しさを紛らわせようとしたが上手くいかず、老人は孤独なままの生活をおくることになった。
自宅に軟禁されたガリレオに自由は少なかった。家から数メートル離れた教会に出かけるのにも、煩雑な手続きを必要とした。どうしようもない現実のなかで、思弁だけが己の意識を満たしていく。彼にもまだ考えることの自由はあった。逆に、自由は自分の頭の中にしかなかったのだった。
ガリレオはそのような不幸な状況下で、新しい書物の執筆に取りかかる。彼の頭脳は休むことがなかった。常に新しい考えが頭に浮かんでいて、それをペンで書き取っていくことで自身を慰めようとしていたのだった。







前のページ へ
次のページへ