
1562年 |
5月5日 |
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フィレンツェのヴィンチェンツィオ・ガリレイがペーシャのジュリア・アマナティと結婚する。ふたりはピサに住む。 |
1564年 |
2月15日 |
0歳 |
ふたりにとって最初の子供となるガリレオが生まれる。 |
2月19日 |
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ピサ大聖堂の洗礼所でガリレオは洗礼を受ける。 |
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1573年 |
5月8日 |
9歳 |
ヴィルジニア・ガリレイ(妹)が生まれる。 |
1574年 |
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ヴィンチェンツィオ・ガリレイと彼の家族がフィレンツェに引っ越す。 |
1575年 |
12月8日 |
11歳 |
ミケランジェロ・ガリレイ(弟)が生まれる。 |
1578年 |
10月7日 |
14歳 |
リヴィア・ガリレイ(妹)が生まれる。 |
1579年 |
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ガリレオがヴァロンブローザのサンタ・マリア修道院に入学する。 |
7月 |
15歳 |
ガリレオが、修道院を辞めてフィレンツェの家族のもとへ帰る。 |
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1581年 |
9月5日 |
17歳 |
ガリレオがピサ大学に学芸学部の学生として入学する。ガリレオの父の願いは、彼に医学を勉強させることだった。 |
1583年 |
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19歳 |
ガリレオの伝記を一番最初に書いたヴィンチェンツィオ・ヴィヴィアーニによると、ガリレオはピサで学生生活を送っているあいだはずっと、ピサ大聖堂のシャンデリアの揺らぎを観察しながら、振り子の周期性について公式化を試みていたという。 |
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ガリレオは、はじめてユークリッド幾何学を研究する。それは大学ではなくフィレンツェの数学者オスティリオ・リッチの家で行なわれた。 |
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1585年 |
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21歳 |
ガリレオは4年間の学究生活を終え、フィレンツェに学位を取らないまま帰る。 |
1586年 |
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22歳 |
ガリレオはアリストテレスよりもアルキメデスの説に則って物理学のある問題について研究をする。彼は「静水の秤(はかり)」を考案する(著書『小天秤』)。 |
1585〜89年 |
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21〜25歳 |
フィレンツェとシエナで数学の個人教授(家庭教師)をする。 |
1587年 |
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23歳 |
ローマへの初めての旅。クリストファ・クラヴィウスに会う。 |
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シエナ大学の数学教授に応募する。 |
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アルキメデスの業績をも超える、重心についての確かな説を見つけ出す。 |
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1588(?)年 |
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24歳 |
ヴィンチェンツィオ・ガリレイが弦の引っ張り具合と音の高さの関係についての実験を行なう。ヴィンチェンツィオの子であるガリレオは父の実験を手助けしたものと思われる。 |
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ガリレオはフィレンツェアカデミーで2度の公的な講義を行なう。それはダンテの『神曲』の「地獄編」に書かれている地獄についての様子や場所、広さについてのものであった。 |
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1589年 |
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25歳 |
ピサ大学、シエナ大学、パドヴァ大学、ボローニャ大学での教授職やフィレンツェでの講師の地位を得ようとする。結果、ピサ大学での数学教授の地位を得る。 |
1589〜92年 |
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25〜28歳 |
ピサ大学で数学の科目を教える。年俸は60スクード。この時期に書かれた講義録のアイデアが後々まで生きることになる。「運動について」というノートの中で、ガリレオは運動についてはアルキメデスの考えを用いており、落下する物体の速度はその物体の密度に比例しているのであって、重さに比例しているとのアリストテレスの主張を否定した。 |
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ヴィンチェンツィオ・ヴィヴィアーニによると、ガリレオはピサの斜塔から重さの異なる2つの球を落として、落下速度に差はないとする、自分の推論を証明したという。これは歴史学者によって、事実かどうか疑わしいとされている。 |
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1591年 |
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27歳 |
ヴィンチェンツィオ・ガリレイが他界し、長男であるガリレオが家長になる。ガリレオには、妹であるヴィルジニアに、父から相続した遺産を支払う義務があったが、その額は莫大であった。ちなみにヴィルジニアはベネデット・ランドゥッチと結婚したばかりであった。 |
1592年 |
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28歳 |
ガリレオはヴェネツィア共和国のパドヴァ大学の数学教授の地位を得る。年俸は160デカット。そこに1610年までとどまる。最初の任期は4年間であり、さらに2年間の更新が可能であった。彼の就任講義は12月7日にあり、ガリレオの通常授業は12月13日から始まった。ガリレオの職務は、幾何学と天文学を教授することであった。また、ユークリッド幾何学や算術、要塞建築工学、測量学、宇宙論、光学、関数尺の使い方などについて、個人教授を行なった。 |
1593年 |
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29歳 |
要塞建築と機械工学についての私的な研究を論文にする。 |
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揚水の機械を開発する。それはポンプをホースによって制御するものであった。1594年、この設計についてヴェネツィア元老院から特許を得る。 |
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1595年 |
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31歳 |
地球の年周運動と日周運動に依拠する潮汐理論を発展させる。この頃からコペルニクスの理論をガリレオが好むようになったことが窺える。 |
1597年 |
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33歳 |
「幾何学的・軍事的コンパス」を発明する。一種の関数尺で、いくつかのスケール(目盛り)が刻んである二つの定規を端でジョイント(可動節)により連結させた数学的な道具である。それは実用的な数学の問題を解くために使われた。ガリレオはその使用方法を親しい学生に教え、取扱説明書を書き、後にそれを出版した。 |
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学生の教科書として、天空や宇宙論についての書籍を用意した。 |
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1599年 |
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35歳 |
マリナ・ガンバに結婚を申し込む。 |
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マルカントニオ・マッツォレーニという名の職人を雇い、科学器具を作らせ、ガリレオの発明した関数尺を生産させた。それはガリレオが書いた使用説明書とともに裕福な学生たちに売られた。 |
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1598年の12月まで遡る形で新規の任期を6年得た。年俸は320デカット。 |
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1600年 |
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ジョルダーノ・ブルーノがローマ教区に生まれる。 |
8月13日 |
36歳 |
マリナ・ガンバがヴィルジニアという洗礼名が付けられた娘を産む。娘はのちにマリア・チェレステという修道女名になる。 |
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1601年 |
1月 |
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ガリレオの妹のリヴィアがタッデオ・ガレッティと結婚する。ガリレオは1800デカットの持参金を約束する。800デカットはすぐに支払い、残りを年200デカットずつ年賦で支払う約束だった。ガリレオの兄弟のミケランジェロが半額を負担した。ガリレオは600デカットを借金する。 |
8月18日 |
37歳 |
マリナ・ガンバがリヴィアという洗礼名が付けられた2人目の娘を産む。彼女はのちに、アルカンジェラという修道女名になる。 |
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1602年 |
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38歳 |
ガリレオは振り子を用いた自然加速運動(自由落下)に関する実験をする。彼の友人である、物理学者サントーレ・サントリオはプルシロギウムと呼ばれる器具を振り子の原理を用いて発明した。それは脈拍を測定するための、手持ち振り子であった。 |
1603年 |
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39歳 |
ガリレオは、手書きの原稿をコピーし、私的に教えている学生に売るために、筆記者を雇いはじめる。 |
1604年 |
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40歳 |
マントヴァに出向き、マントヴァ公爵から寵愛を受けようとするが、この努力は実を結ばなかった。 |
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均一な加速運動に関して、平面を緩やかに物を転がす実験をはじめて行う。実験はボールの位置を等間隔の時間によって決めていくものであった。これらの実験は落下運動の法則を導くものであったが、この法則を数学的に立証するには3年の歳月を必要とした。 |
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9月 |
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水を降下させるガリレオの装置がパドヴァのコンタリーニ宮殿の庭園で実験された。 |
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10月10日 |
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新星(超新星)がパドヴァではじめて観測される。 |
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12月24日 |
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ガリレオは初めて新星を観測する。 |
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1605年 |
1月 |
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新星についてパドヴァ大学で3回の講義をする。彼の主張は、視差を測定したら新星が月の向こう側にあることを示せるということだった。これは、アリストテレスの宇宙観とは異なり、天界が不変の世界ではないことを意味した。 |
3月 |
41歳 |
「新星に関するチェッコ・デ・ロンキッテの対話」をパドヴァで出版。第2版が夏にヴェロナで出版される。 |
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7月 |
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軍事コンパスの使用方法について出版する。それはメディチ家のコジモ2世に献上される。 |
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1606年 |
夏 |
42歳 |
「アリンベルト・マウリの考察」を出版する。 |
7月 |
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温度鏡という私的使用の温度計を発明する。 |
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流体力学についての論文を書く。 |
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1607年 |
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43歳 |
バルディサー・カプラが「比例尺の使い方と作り方」をパドヴァで出版する。これはガリレオの関数尺の本の剽窃であった。ガリレオは法的な手続きをとり、結果、カプラが大学から追放されることになり、在庫の剽窃本をすべて没収する。1605年までカプラの家庭教師をしていた、ドイツの数学者であるシモン・マリウスが、この事件に巻き込まれる。 |
夏 |
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ガリレオは初めて流体力学と物質の強度について研究する。 |
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8月 |
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運動についての研究が進む。投射物が放物線をたどることを発見する。 |
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1608年 |
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44歳 |
ガリレオは、友人であるサグレドがもっていた磁石を手に入れて、それをメディチ家のフェルディナンド大公に売りつける手はずを整える。56オンスの手元の磁石は132オンスの鉄をつり下げた。 |
夏 |
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ガリレオはクリスチーナ大公妃の無理強いでフィレンツェに滞在する。メディチ家のコジモの結婚。ガリレオはコジモの性格と権力の意匠や象徴として磁石をもちいることを提案する。 |
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9月 |
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ハーグにて、ハンス・リッペルハイが小型望遠鏡の特許を申請する。 |
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ガリレオが流体力学のバランスについて考察する。 |
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物体の加速についての研究がさらに進む。 |
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1609年 |
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45歳 |
メディチ家のコジモ2世が父の跡を継ぎトスカナの大公になる。 |
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ヨハネス・ケプラーが「新宇宙」を出版する。これは惑星運動についてふたつの法則を述べたはじめてのものである。 |
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5月 |
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ネーデルランドで遠くのものにもかかわらず近くにあるように見る装置(望遠鏡)が発明されたとガリレオは耳にする。 |
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6月 |
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ガリレオはその発明品を模造し、倍率3倍の望遠鏡を作る。 |
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8月 |
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トーマス・ハリオットがロンドン近郊の観測で、6倍の望遠鏡で見た月の様子を絵に描く。 |
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ガリレオは友人パオロ・サルピの人脈をつかって、8倍の望遠鏡をヴェネチア元老院に献上する。ガリレオはパドヴァ大学に給料の倍増と終身教授権を要求する。良い感触があったにもかかわらず、うまくいかなかった。 |
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秋 |
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望遠鏡の改良を進め、天体観測を始める。 |
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12月 |
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11月30日から12月19日まで月の観測を継続的に行なう。 |
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1610年 |
1月 |
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1月7日、ガリレオは木星の近くに小さな3つの星が輝いているのを観測する。15日までに木星に4つの衛星が存在していることを確信する。 |
2月 |
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他の観測も続けているあいだに、ガリレオはいくつかの星の位置をマッピングする。 |
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3月 |
46歳 |
トスカナ大公コジモ2世に献上したSidereus Nuncius(「星界の報告」)がヴェネツィアで印刷される。木星の衛星は当時、メディチ星とよばれ、それはガリレオが懇意になっているパトロン当家の名誉を讃えたものである。 |
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4月 |
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ヨハネス・ケプラーがガリレオの諸発見について支持する旨の手紙を送る。手紙はプラハで「星の使者との会話」として出版される。フィレンツェでも数か月後に出版される。 |
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ガリレオはメディチ家大公コジモ2世に木星の衛星を見せるためにピサに旅発つ。 |
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6月 |
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マルチン・ホルキが「星の使者に反論するごく短い試論」を出版する。 |
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ガリレオははじめて土星の奇妙な様子を観測する。 |
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7月 |
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交渉により、ガリレオは「ピサ大学の筆頭数学教授ならびにトスカナ大公付哲学・数学教授」に任命される。この職は終身のものとなる。 |
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9月 |
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パドヴァからフィレンツェへ転居する。 |
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ケプラーが木星の衛星の存在を確かめる。(そして、翌年これについての小冊子を出版する) |
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11月 |
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ガリレオの門下生、ジョン・ウエッダーバーンがパドヴァでマルチン・ホルキの論文に反論する。 |
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木星の衛星がイングランドのトーマス・ハリオットによって観測される。同様に、ローマではクリストファ・クラヴィウスとローマ学院にいるほかのイエズス会の数学者によって観測される。 |
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ルドヴィコ・デレ・コロンベがガリレオの天体の発見に反論すべく、「地球の動きへの反論」を出版する。 |
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12月 |
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ガリレオは金星が月のように形を変えていくことを確かめる。金星の満ち欠けは天動説の偽りをあらわしており、金星が太陽のまわりをまわっていることを証明している。それは地動説と一致しているのだった。 |
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トーマス・ハリオットがはじめて太陽の黒点を観測し記録する。 |
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1611年 |
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47歳 |
フランチェスコ・シッツィがガリレオの天体の発見に反論するため「天文学的考察」を出版する。 |
3月 |
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ガリレオが3月29日にローマに到着する。 |
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ヨハネス・ファブリキウスとその父で天文学者のデヴィッド・ファブリキウスが北ドイツで太陽の黒点観測を始める。 |
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3月か4月 |
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クリストファ・シャイナーとその門下生ヨハン・シサットが太陽の黒点を見るが、観測は継続しなかった。 |
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4月 |
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ベルラルミーノ枢機卿の要請により、ローマ学院のイエズス会の数学者たちがガリレオの天体の発見が正しいと証明する。しかし、彼らは、これらの諸発見についてのガリレオの解釈に必ずしも同意していたわけではない。 |
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ガリレオはリンチェイ学士院への入会を認められる。アカデミーの創立者であり、パトロンのフェデリコ・チェシによって祝宴が催される。その場で「テレスコープ(望遠鏡)」の名がはじめて使われる。 |
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5月 |
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ガリレオがアリストテレス派哲学者チェーザレ・クレモニーニやピサ大学のガリレオの同僚、近しい反対者とくらべて、好ましくないことを述べていないかどうかを検査することを宗教裁判所が決定する。 |
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ローマ学院の数学者が祝宴でガリレオを讃える。オド・ファン・マエルコテがガリレオの諸発見について講義を行なう。 |
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ローマにいるあいだ、ガリレオは太陽黒点を友人に見せる。 |
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6月 |
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ドイツで、ヨハネス・ファブリキウスが太陽の黒点について初めての本を出版する。タイトルは、「太陽に観測される黒点と太陽が回転していると思われることについての解説」 |
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8月 |
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フィレンツェにもどり、ガリレオは水中の物体の振る舞いについての議論に没頭する。ガリレオはアルキメデスの立場をとり、アリストテレスの立場に反対する主張をした。 |
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9月 |
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ケプラーの「屈折光学」がアウグスブルクで出版される。 |
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10月 |
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ふたりの枢機卿を招き、晩餐時に議論をする。そのとき、ガリレオはアルキメデスの説による水中での物体の性質について述べる。ガリレオはマッフェオ・バルベリーニ(のちのウルバヌス8世)の支持を得た。彼はこのときガリレオのパトロンのひとりとなった。 |
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1612年 |
1月 |
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太陽黒点についての論文「太陽黒点についての3つの手紙」がクリストファ・シャイナーによって書かれるが、それは「絵描きのうしろにかくれたアペレス」という筆名でアウグスブルクにて出版された。 |
5月 |
48歳 |
ガリレオの太陽黒点についての最初の手紙。 |
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8月 |
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ガリレオの太陽黒点についての2回目の手紙。 |
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9月 |
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クリストファ・シャイナーのふたつ目の太陽黒点についての論文、「太陽黒点についてのより正確な議論、ならびに木星のまわりを動く星について」がペンネーム・アペレスで出される。 |
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秋 |
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リンチェイ学士院がガリレオの太陽黒点についてマルクス・ヴェルザーにあてた手紙について出版することを決める。 |
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12月 |
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ガリレオの太陽黒点についての3度目の手紙。 |
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1613年 |
3月 |
49歳 |
「太陽黒点とその諸属性に関する話と証明」(「太陽黒点についての手紙」)というガリレオが書いた3通の手紙が、ローマでリンチェイ学士院より出版される。2つの論文を写したものの約半分がシャイナーにより再版される。 |
12月 |
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ピサ大学数学教授、ベネディット・カステリとガリレオの門下生がロレーヌ大公妃クリスチーナにコペルニクスの理論への支持を表明する。この出来事を耳にしたガリレオは科学と聖書の関係についての己の見解を長い手紙にしたためてカステリに送る。 |
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1614年 |
12月 |
50歳 |
ドミニコ会修道士トマソ・カッチニがフィレンツェでガリレオとコペルニクスの説に同意した数学者を否定する説教を行なう。コペルニクスの説を異端であるとカッチニは断言した。 |
1615年 |
1月 |
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カッチニの上司がガリレオに書面で謝罪する。 |
2月 |
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ドミニコ会修道士ニッコロ・ロリーニは私的な場で早くからガリレオの見解を批判していたが、ガリレオのコペルニクス的見解を異端審査する訴状を提出する。彼はガリレオがカステリに送った手紙の写しを一緒に提出した。 |
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3月 |
51歳 |
カルメル会修道士パオロ・アントニオ・フォスカリーニが「当該意見の反論として挙げられた聖書の文言ならびに神学的主張の文言と調和し一致する、地球の運動と太陽の不動について並びに新ピタゴラス主義の世界体系についてのピタゴラス主義とコペルニクス主義の意見」を出版する。この書でフォスカリーニはコペルニクスの理論は聖書と矛盾しないと主張した。 |
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カッチニはローマの検邪聖省に証言録取書を提出する。 |
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ガリレオはヴァチカンにおける公式な取り次ぎ官であるピエロ・ディニ大司教に自らの見解の正当性を主張する長文の手紙を書く。 |
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4月 |
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ベルラルミーノ枢機卿がフォスカリーニに、コペルニクスの理論を単なる仮説として取り扱い、ガリレオもそのうちに含めるよう、警告を手紙で出す。 |
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夏 |
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ガリレオは「クリスチーナ大公妃に向けての手紙」を書く。それは出版されなかったが、ひろく回覧された(ラテン語版がネーデルランドで1636年に出版された)。これはカステリ宛てに1613年12月に書いた手紙を増補したものである。 |
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12月 |
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ガリレオはコペルニクスの理論の正当を主張するためローマに向かう。 |
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1616年 |
1月 |
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潮汐についての理論を書き上げる。ガリレオの考えによれば、それは地動説を証明するものだった。彼はアレッサンドロ・オルシニ枢機卿にこの論文を送った。 |
2月 |
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顧問委員会は検邪聖省に次のように宣告した。太陽が宇宙の中心にあるという説は哲学的に不正であり形式的に異端であること、地球の年周運動は哲学的に不正でありいずれにしろ神学上不正であること。 |
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パウルス5世の命によりベルラルミーノ枢機卿がガリレオを官邸に呼び、コペルニクスの理論を信じたり正当化しないように警告を与える。1633年に公表された未署名の検邪聖省の書類によると、ガリレオは口頭でも書面でもコペルニクスの理論を論ずることを禁じられたという。 |
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3月 |
52歳 |
禁書聖省はコペルニクスの書「天体の運行について」を正しさが証明されるまで禁書とし、フォスカリーニの本を完全に禁書とする。ガリレオはこの裁定に意見を言わなかった。 |
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ガリレオはパウルス5世と謁見し、信頼を得る。 |
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5月 |
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ベルラルミーノ枢機卿はガリレオに検邪聖省による審判と判決を受け入れなくてもいいことを保証する手紙を書く。 |
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6月 |
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ガリレオは、木星の衛星の食を用いて、海上における経度を決定するという課題に取り組む。 |
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- |
ガリレオとフランチェスコ・インゴリとの口頭による議論ののち、インゴリが自分の主張を書き出し、ガリレオが書面で返答することに同意する。インゴリのパンフレット「コペルニクス理論に反論する、空間ならびに地球の静止についての議論」はコペルニクスと相容れない聖書の議論を持ち出したものだが、それは出版されなかった。検邪聖省の裁決により、ガリレオはこのとき返答しなかったからである。 |
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1618年 |
10月〜11月 |
54歳 |
10月と11月に3つの異なる彗星が現れる。3つ目のものは非常に明るかった。ローマ学院数学教授オラツィオ・グラッシは彗星についての公的な講義を行なう。この講義録の手書きの写しがガリレオに送られる。この講義自体も1619年に以下の題名で出版される。「ローマ学院の神父の一人によるイエスズ会のローマ学院で公然にされた、MDCXVIIIの年の3つの彗星についての天文学的議論」。問題はこれらの彗星が宇宙にあるものか、それとも地球上の出来事なのかということだった。 |
1619年 |
1月〜2月 |
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彗星についてのガリレオの見解を、オーストリアのレオポルト大公の周囲の多くの人々から求められる。彼は、ローマ学院でのイエズス会の神父により出版された講義録への批判を執筆しはじめる。 |
6月 |
55歳 |
ガリレオ門下生のマリオ・グィドゥッチが、彗星に対するイエスズ会の判断に反論する主張の講義をする。この講義はガリレオにより加筆され以下のタイトルで出版される。「フィレンツェ・アカデミーにおける筆頭の期間になされあたマリオ・グィドゥッチによる彗星についての講義」。 |
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10月 |
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オラツィオ・グラッシがタイトルのパンプレットで反論する。「フィレンツェ・アカデミーにおいてマリオ・グィドゥッチによって表明され最近出版されたものならびに、彗星を注視したガリレオ・ガリレイの諸意見をよく検討したものにおける、天文学的均衡」。 |
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1620年 |
5月 |
56歳 |
禁書聖省は、コペルニクスの「天体の運動について」が禁書になるよりも以前に書かれたものについての修正を主張した。 |
6月 |
- |
マリオ・グィドゥッチが、オラツィオ・グラッシの「天文学的均衡」に返答する手紙を出版する。 |
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8月 |
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マッフェオ・バルベリーニ枢機卿がガリレオに、その栄誉を称えるための自作の詩を贈る。 |
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1621年 |
1月 |
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ガリレオはフィレンツェ・アカデミーの筆頭に選ばれる。 |
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パウルス5世が逝去。そのあとをグレゴリウス15世が継ぐが、1623年7月に他界してしまう。 |
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2月 |
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メディチ家大公コジモ2世が歿。そのあとをフェルディナンド2世が継ぐ。時に11歳。彼の祖母、クリスチーナ・ド・ロレーヌと彼の母、マリー・マドレーヌが摂政となる。 |
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1622年 |
10月 |
58歳 |
ガリレオはローマのリンチェイ学士院に、グラッシの「天文学的均衡」に返答する「分析者」というタイトルの手書き原稿を送る。 |
1623年 |
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トマソ・カンパネラが「ガリレオの弁護」をフランクフルトで出版。 |
2月 |
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ローマの検閲官が「贋金鑑識官」を出版する許可を出す。 |
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8月 |
59歳 |
グレゴリウス15世が歿し、ガリレオの友人であり支援者であるマッフェオ・バルベリーニ枢機卿が教皇の選ばれ、ウルバヌス8世と名乗る。 |
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10月 |
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「贋金鑑識官」がウルバヌス8世に献上され、ローマにおいてリンチェイ学士院の援助のもと出版される。 |
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1624年 |
4月 |
60歳 |
ガリレオはローマに行き、ウルバヌス8世と6回の謁見を許される。また多くの枢機卿とも謁見する。教皇は、数学的な仮説として扱う限りにおいてコペルニクスの理論についてガリレオが執筆できることを保証する。 |
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- |
ローマにおいて、リンチェイ学士院の会員に顕微鏡を見せる。この器具を用いたフランチェスコ・ステルルティが行なったミツバチの観察が1630年に出版される。ガリレオはこの器具をツォレルン枢機卿とババリア公爵に献上する。 |
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6月 |
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ガリレオがフィレンツェに戻る。 |
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9月 |
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ガリレオは「インゴリへの手紙」を書く。それは1616年のインゴリの「論争」に反論するものだった。この手紙は出版されなかったが、手書きの写しが出回る。 |
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ガリレオは潮汐についての論文の手直しを始める。それは最後には「二つの重要な世界体系に関する対話」(「天文対話」)として結実する。 |
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1624〜25年 |
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60〜61歳 |
ガリレオの「贋金鑑識官」への不満が人知れず広がっていく。この本で採用された原子論が聖体拝領についての教会の公式な教義、すなわちパンとワインがキリストの肉と血に変化するということと一致せず、この点に不満が集まる。検邪聖省の取り調べののち、ガリレオは無罪となる。 |
1626年 |
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62歳 |
オラツィオ・グラッシがパリで「贋金鑑識官」への返答を出版する。 |
1627年 |
3月 |
63歳 |
ウルバヌス8世がガリレオの息子ヴィンチェンツィオに年60スクードの年金を授ける。 |
1629年 |
11月 |
65歳 |
木星の衛星を用いて海上における経度を決定する方法についてスペイン当局との交渉を再開する。 |
12月 |
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ガリレオに孫が誕生する。1629年に結婚した息子ヴィンチェンツィオの妻セスティリア・ボキネリが出産。その子をガリレオと名付けた。 |
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1630年 |
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クリストファ・シャイナーが「熊のバラ」を出版する。以後、100年以上にわたって太陽黒点についての決定的な書となる。 |
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ヨハネス・ケプラー歿。 |
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2月 |
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ウルバヌス8世がガリレオに年40スクードの年金を授ける。 |
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4月 |
66歳 |
ガリレオが「天文対話」を完成させる。 |
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5月〜6月 |
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ガリレオがローマで検閲官に自分の「天文対話」を見せて、リンチェイ学士院から出版する手配を整える。ヴェネツィアの長官から暫定的な許可を得る。 |
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夏 |
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疫病の流行により、都市間の交易や交通の混乱が始まる。 |
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8月 |
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リンチェイ学士院の創立者で支援者のフェデリコ・チェシが死ぬ。これによって、アカデミーも終わりを迎える。 |
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秋 |
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ガリレオは「天文対話」の序文と後書きを修正するためヴァチカンの長官へ送る。彼はこの時、本をフィレンツェで印刷することを決める。 |
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1631年 |
春 |
67歳 |
大公フェルディナンド2世とそのローマ大使を通じて、ヴァチカンの長官と「天文対話」の印刷について交渉する。最終的な結論として、序文と後書きはローマでの許可をとり、残りの部分はフィレンツェの検邪聖省による点検と許可をとることになる。 |
1632年 |
2月 |
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「天文対話」が全て印刷される。 |
夏 |
68歳 |
ウルバヌス8世により「天文対話」の頒布が禁止され、その本を調査する特別の委員会ができる。 |
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9月 |
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特別委員会の報告に基づき、ウルバヌス8世はこの問題を検邪聖省にゆだねる。そして、教皇自身もガリレオをローマに召還することを決定する検邪聖省の会議を統括することになる。 |
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10月 |
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ガリレオは、フィレンツェの検邪聖省から召還命令が出たことを知らされる。彼は命令に従うことを約束するが、審判をフィレンツェで行なうように要求した。 |
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11月 |
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教皇が統括した検邪聖省の会議で、ガリレオの要求は却下される。必然的に、ガリレオは検邪聖省の命令に従わざるをえなかった。 |
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12月 |
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フィレンツェの異端審判官がガリレオと面会したことをローマに報告する。ガリレオは床に臥しており、3人の物理学者が署名した声明によると、ガリレオはひどい病気でローマへの旅をすることが保障できないとあった。 |
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ウルバヌス8世がふたたび開いた会議で、検邪聖省はガリレオの弁明を言い逃れとして却下し、もし自発的にローマにこなかったら、逮捕されローマに連行し拘束されることを通達する。 |
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1633年 |
1月 |
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ガリレオはフィレンツェを1月20日に出発し、疫病のため2週間ローマ市外に隔離された後、2月13日に到着する。メディチ家のフェルディナンド2世の厚意により、教皇はガリレオはトスカナの大使の官邸に滞在することを認められる。ガリレオは社会的な接触を禁じられた。 |
4月 |
69歳 |
ガリレオは正式に検邪聖省から取り調べを受ける。4月12日から13日まで、彼は検邪聖省の建物の中に勾留された。しかし、快適な部屋だった。 |
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専門家がガリレオの「天文対話」を調べるために呼び出され、調査結果を提出する。 |
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弁明交渉の場が用意される。そこでガリレオは刑を軽くするために罪を弁明することをゆるされ、寛大な判決を受けることになるはずだった。 |
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4月30日 |
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4月30日、ガリレオは、「天文対話」のおけるコペルニクスの事例はあまりにも過激すぎたかもしれないことを認め、次の書では地動説を否定することを申し出る。 |
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6月 |
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ウルバヌス8世は、ガリレオが不定期に収監されることになると決定する。 |
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正式な起訴をもって、ガリレオは検邪聖省に取り調べられる。次の日、判決が下り、ガリレオは、検邪聖省が定める場所に収監され、告解をすることになる。この判決には10人の審判官のうち7人しか署名しなかった。 |
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サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会での正式な式典においてガリレオは異端誓絶を行なった。 |
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最初、ガリレオはトスカナの大使官邸での軟禁を認められていたが、それからトスカナ市のシエナの大司教の官邸での軟禁になった。 |
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7月 |
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ガリレオはシエナに着いた。ここで彼は二つの新しい科学についての論文の案を練る。 |
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12月 |
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ガリレオは、フィレンツェ近くのアルチェトリの別宅に戻ることが許される。ガリレオは残りの人生をそこで自宅監禁されることになる。 |
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1634年 |
冬 |
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ヘルニアの痛みに苦しむ。ガリレオはフィレンツェの内科医の診察を受けることについてローマからの許可を求めるが、却下され、このような要求は、もはや軟禁状態にある以上無駄だと知る。 |
春 |
70歳 |
ガリレオの娘、マリア・カステリは長いあいだアルチェトリの近くの修道院で生活していたが、歿する。 |
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夏 |
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機械についての論文、「機械工学」が1602年ガリレオによって完成される。これはフランス語に訳され、マラン・メルセンヌによってフランスで出版される。 |
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1635年 |
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71歳 |
「天文対話」のラテン語訳がマティアス・ベルネッガーによってシュトラスブルクで出版される。 |
5月 |
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ルイ・エルゼヴィルというオランダの出版業者がアルチェトリのガリレオを訪ね、「二つの新科学対話」をライデンで出版することの同意を求める。 |
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8月 |
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ガリレオはネーデルランドの首相に、木星の衛星の食を用いて海上での経度を決定することの提案書を送る。 |
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11月 |
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ネーデルランドの首相がガリレオの提案を精査する委員会を立ち上げる。 |
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1637年 |
4月 |
73歳 |
ネーデルランドの首相がガリレオを称え、長きにわたる功労への感謝として500フローリン相当の金の鎖をガリレオの送る。 |
6月 |
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ガリレオはエリア・ディオダティに右目が完全に失明したことを手紙で書く。 |
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11月 |
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月の新しい秤動をガリレオが発見したことが公表される。 |
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1638年 |
1月 |
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左目の視力も失い、完全に失明する。ガリレオは検邪聖省に軟禁からの解放を求めた。この申し立ては却下された。しかし、内科医の近くに住むためにフィレンツェの家に移ることが許可された。3月には、祭日に教会に参詣する許可を得たが、他者との接触は禁止されていた。 |
7月 |
74歳 |
オランダのライデンで「新科学対話」を出版。 |
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8月 |
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オランダ首相からの金の鎖がガリレオの贈呈されたとき、ガリレオはこれを拒否した。なぜなら、ウルバヌス8世の意見を求めたからである。 |
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深刻な病のなか、ガリレオは最後の希望と遺言を用意した。 |
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9月 |
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アルチェトリのガリレオをジョン・ミルトンが訪ねた。 |
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1641年 |
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77歳 |
ガリレオは振り子時計の応用を思いついた。 |
1642年 |
1月 |
77歳 |
ガリレオはアルチェトリで1月8日に歿した。遺骸はサンタ・クローツェ教会に葬られた。 |